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カエルと帰る

魚津本部校

楓の葉

 ある晩、勤務を終えた男は魚津駅からほど近い職場から富山方面へと車を走らせていた。国道8号線を西へ向かって走行するその車があるスピードに達したとき、フロントガラスから葉っぱのようなものがヒラリと舞うのが見えた。正確には、ヒラリというよりシュッ、運転席から視界右側へスパーンと飛び出す感じだった。道沿いに街灯はさほどなく、薄暗い中ではあったが、それが楓の葉だということは何となくアタリがついた。彼は普段自宅前のスペースに駐車しているのだが、そのすぐ近くには楓の木が植わっており、その葉がこれまでも幾度となく彼の車の上に落ちて雨などでボンネットやフロントガラスにくっついていたからだ。おそらくそういう楓の葉が走行中に水分を失い剥がれ飛んだのだが、そのこと自体は何ら特筆に値しない日常的事象である。しかし、葉が舞った次の瞬間、窓を全開にしてその上に置いていた彼の右腕に何かが激突した。

 

右腕に感じたインパクト

 男は車のエアコンをつけずに窓を開け心地良い秋の風を感じながら帰路を中腹まで移動していた。楓の葉が舞い散ったその直後、全開の窓の上に少し外にはみ出すように置いた男の右腕に、「ボン」と何かが当たった。彼は、空中の浮遊物か、もしくは飛行中の蛾か何かそんな虫の類が腕に当たったと思った。暗い車内で「今のがもし蛾だったならワイシャツに鱗粉がついたかな、嫌だな。」などと思いながら何気なくドリンクホルダーのタンブラーに左手を伸ばしたその刹那、「トン」。彼の掌にまた何かが当たった。今度ははっきりと生命体。それもしっとりとした柔らかな触感だ。車内で一人彼は叫んだ。「なんかおる!」

 

出会い

 彼は左の掌で車内にいる何らかの生命体の存在を認識するや否や、叫び、そして“光速”で車内灯を点けた。自分の左側、つまり助手席の方に恐る恐る目をやったが、何もいない。いないがそれは確実にいる。さっきの蛾が車内に入ってきたのか、それともそもそも蛾ではない別の何かだったのか。そう、たぶん蛾じゃない。あの感触は蛾より、何というかもっと、ジューシーだった・・・。そう考えながら、彼はしばらく運転し続けることになる。車を停められるコンビニはおろか、路肩に停めようにもそれに相応しい道ではなかったため、何とも言えない不快感とともに運転を続けた。

 

 子供の頃は、虫(人類・獣類・鳥類・魚介以外の小動物)がとりわけ苦手ということはなかった。というより、どちらかと言えばまあまあ好きな方で、捕まえたり飼ったりしていた。それが、年を重ねるにつれ、どんどん苦手意識が強くなっていった。今となっては、虫はクワガタとカブトムシだけは例外的に好きなままだが、その他は基本すべて嫌いなのだ。そんなことを考えながら、男はしばらく車の運転と車内に確実に存在している自分以外の生命体の捜索を同時進行で行った。実を言うと、この時点で彼の中でそれが「カエル」だとほぼ確信していた。なぜならば、左手で得た感触もさることながら、楓の葉同様心当たりがあったからだ。最近家の前の用水にカエルがいっぱいいるのだ。推察するに、彼はその中の一匹なのだろう。きっと彼は、用水から散歩に出て男の車の上で遊んでいたところ、昼過ぎにその車は発進し、遠く離れた魚津の地で駐車されることになる。道中、何とかフロントガラスとボンネットの隙間に潜り込み、そこに挟まっていた楓の葉とともに風圧に耐えたのち、魚津でも下車するという選択をせずそのままステイ。そのおかげで、その夜、車の所有者とともに帰路に着くことになる。往路同様復路でも、走行中に落車することなく(九死に一生を得て)、車内に移動することに成功した。運転手は想像する。フロントガラスからスパーン。右腕にボン。跳ね返って車内へイン。挨拶がてらシフトレバー付近にピョン。左手にトン・・・。

 

錯覚 ①

 人は自分の望むものが見え、期待する声が聞こえるという話がある。例えば、とあるロングヘアの女性に好意を持つ男性が、街で彼女と似た髪型の女性を見かけたとき、その人が意中の彼女に見えたり。合格報告を待ち望む人間の耳には電話越しの相手の「不合格」という言葉が「合格」に聞こえたり。車の運転手の男は、小学4年生のとき、帰りの会で大好きだった先生(男性)の口から「4年生(「よね」んせい)は・・・」という言葉の最初の2文字が聞こえただけで、自分の名前が呼ばれたのではないか、自分の姓とともに何か自分に関わる話が始まるのではないか、何か褒めてもらえるのではないか、とドキドキしていたという。たまたま短期間に立て続けに褒めてもらうという経験をしていた彼に、褒められることを欲する中毒症状が現れていたのだ。実際には彼の姓ではなく、ごく普通に「4年生」と発言されることがほとんどだったため、幾度となく <ドキドキの無駄遣い> を余儀なくされた彼は、当時「4年生」という、紛らわしい思わせぶりなそのワードが嫌いだった。というか、ライバル視していた。先生の口から出る言葉が「4年生」であるたびに、心の中で「またお前か」とやきもちを焼いていたらしい。

 

錯覚 ②

 筆者もまた、冷水と思って触った水が熱湯だったという経験をしたことがある。それを触ったときは一瞬冷たく感じた気がする。いや、その瞬間だけは確かに冷水だった。また、いつもお茶を飲むコップを使い冷蔵庫内で保存されていた麺つゆを、麦茶だと勘違いして乾いた喉に思い切り流し込んだあの夏も、確かにそれはお茶の味がしたのだ。始めだけは。最初の2秒だけは、自分にとっては間違いなくお茶だったのだ。こんな風に、視覚や聴覚、味覚といった人間の五感というものは時として当てにならないものだが、触覚とて例外ではないことを思い知る。車内にいるはずだが姿の見えないその生き物に戦々恐々としながら運転している間、右足の足首から脛(すね)や脹脛(ふくらはぎ)にかけて何かがそこにくっついているような、ズボンの裾から中にそれが入り込んで来たのではないかというような、錯覚を起こした。これをおよそ5分間隔で3、4回繰り返した。実際にはズボンの生地が肌に触れていただけだったのだが、ゾクゾクが止まらなかった。――――あれ?でも何か変だ。人は「自分の望むもの・期待するもの」を錯覚するのではないのか?普通に考えてカエルがズボンの裾から中に入って来ることを望む人などいないのだ。当然彼も例外ではない。しかしこのままでは、彼は自分のズボンの中のカエルを期待したことになってしまう。

 

錯覚 ③

 でも確かに、例えば肝試しに行った人が、ただの木がお化けに見えることがある。錯覚の話とは多少ズレるが、身体的いじめを継続的に受けている被害者が、なぜか自ら加害者に近づいて行って繰り返し暴行を受けるという事例がある。これはもしかすると、実は一見ネガティヴな結果でも、深層心理では、あるいは極度の恐怖心から、人はそれを望んでしまうことがあるということを意味するのかもしれない。「虐待を受けているその時間だけは、『今度はいつ虐待されるのか、次はどんなヒドイことをされるのか』と心配しなくていいからむしろ安心できる」のだという。そういう何とも痛ましい話を何かで読んだ記憶がある。いじめ・虐待は断じてあってはならないことだが、被害者の心理として、客観的にはネガティヴな結果にもかかわらず、傷つけられ、歪められた心が正常な判断力を失いそれを望んでしまうのか。木がお化けに見えるときも、その木をお化けだと認識している間は(別の)お化けに怯える必要はない。これと同じように、男も、狭い車内でいつどこに出現するかわからないカエルにビクビク怯えるよりも、それが自分の右足にへばり付いていてくれた方がまだ精神の安定は保てたのかもしれない。

 

一人と一匹

 自宅まで車であと20分といったところだっただろうか、UMO(Unidentified Moving Object)=「未確認移動物体」は遂に identify されることになる。つまりその正体が突き止められたのだ。車のバッテリーのことも気に掛けつつ、車内灯の ON / OFF を繰り返しながら運転を続けていた彼が何回目かに明かりを点けたとき、それは助手席のシートのど真ん中に鎮座していた。アマガエルだ。あの例のカエル特有の座り方で、視線を真っ直ぐ前に向け、あたかも一丁前の同乗者であるかのように、ちょこんとそこにいた。実のところ、さすがに「カワイイ」と思わずにはいられなかった。一人と一匹は仲良く一緒に帰宅した。

 

IMO(Identified Moving Object)

 姿を発見後、すぐにどこかに車を停め、そこで降車させることはしたくはなかった。ここまで来たら何とか彼のホームである用水まで送り届けたい、そう思いながら「頼むからそのままじっとしていてくれ」と念じた。車内が明るいと周囲を見渡すことができるので、そのことで彼の好奇心を刺激してはいけない。あちこちピョンピョンされるとまずい。そう考えて明かりは消した。ただ、どうしても気になるので運転には細心の注意を払いつつ、数秒おきにその存在を確認した。あと5分かそれぐらいで自宅(用水付近)に到着というところで、ヤンチャ坊主は突如として姿を消した。しばらくして、よくよく見ると、助手席の窓辺の肘掛けの上にいる。良かった。

 

幻のカエル

 やっとのことで帰宅した男は用水の前に停車した。肘掛けの上でじっとしている連れの存在を確認して、ほっと一息。余裕が出たのか、折角だからと写真の一枚でも撮りたくなった。スマホのカメラで撮る。パシャリ。そしてもう一枚、パシャリ。念のためだ(?)。ようやく家に帰ってもらう時が来た。お別れのとき。男は彼を刺激してはいけないと車内灯が自動で点かないように設定してから、そっと運転席のドアを開けて車を降り、振動を回避するためにそのままドアを閉めずに反対側の助手席のドアをそっと外から開いた。(何とかうまく車外へ出さなきゃ・・・)ガチャ。そーっと。―――・・・いない・・・。えーーーー。さっき、ほんの数秒前まで居た肘置きの上に、彼はもう居なかった。うそやん・・。狼狽しながら、男は悔やんだ。なぜあのとき――最初に助手席に座ったとき――、ちゃんとシートベルトを装着するように促さなかったのか、と。つい先日運転免許の更新をしたときも、「同乗者にも必ずシートベルトをさせてください」とあれほど口酸っぱく言われたじゃないか、と。運転免許センターの先生がなぜあんなにもシートベルトの大切さを力説していたのかを彼はこのとき初めて理解したのだった。その晩、しばらく彼の捜索活動は続けられたが、結局見つからず仕舞い。翌日の再捜索でも結果は同じ。彼は幻のカエルだったのか。忘れた頃に変わり果てた姿で、つまり「ミチ“ガエル”」となって、車内のどこかから発見される結末だけは望まない。ドアを開けた瞬間に神がかり的スピードで降車し、ホームの用水へ無事帰ったことを切に願う。

 

〜「カエルと帰る」完 〜

 

葛藤

 ここまで書いて、はて、このまま終わっていいものかと悩んでいる。ひとつのブログ記事の分量としてはもう十分すぎるほど十分に書いた。書いたが、今読み返してみても、驚くほど中身がない。塾講師の書くブログ記事として、果たしてこれで良いものか。もっと何かそれっぽいことを書かなければいけないのではないか。最悪偉い先生に叱られるのではないか。そんな不安感や恐怖心が筆者に正常な判断力を失わせている。・・・よし、書こう。何か今回の出来事と自然に結び付ければ良いのだ。例えば教訓的な何かを・・・。そうだ、これだ。

 

ツメの甘さは命取り

 上に書いた通り、車の運転手は、自宅付近(カエルのホームである用水の前)に到着した後、彼をうまく車外へ逃がすことに失敗した。厳密には、確実に降車したことを確認できなかった。これはツメの甘さに帰因するのかもしれない。人は、「もう大丈夫だ」と安心した瞬間にふっと集中力が途切れミスを犯してしまうことがある。例えば、ずっとトイレを我慢し続けてようやく帰宅できたとき、用を足す前に「間に合った」と安心して失敗してしまうことがある。一説によれば、玄関で靴を脱ぐ瞬間にこそ最も OR が高まるという。OR とは「おもらしリスク」のことだ。これはたった今造って、生まれて初めて使った言葉だが、おそらく今後二度と使う機会もないだろう。とにかく、もう大丈夫と思っても、事が確実に完了するまでは、いろいろと弛(ゆる)めてはいけないのだ。ツメの甘さによって痛い思いをするといえば、高3生はこんな経験はないだろうか。模試や演習でマーク式の問題を解いているとき、採点時に「正答がわかっていたのにナゼここにマークしているのか?」と自分の注意力のなさを嘆いたことはないだろうか。自分では解答欄の【3】にマークしたつもりだが、どういうわけだかマークした数字が【2】になっているという具合に。真の実力を解答用紙に反映できないことほど悔しいことはない。マーク式の問題は、極論的には正しい数字にマークされていて、それ以外にはマークされていないときに初めて得点できる。問題用紙上でいくら正しい答えを導けていても、最後の最後に集中力を切らしてしまうとそれが取り返しのつかないミスになる可能性がある。マーク完了まで決して油断してはいけない。マークひとつ分の点数差が入試の合否の明暗を分けることもある。本当に注意してほしい。

 

自然に自然に

 ここでまた、自分が書いたことを読み返してみた。・・・しまった。やってしまった。何か自然な流れで立派なことを書こうとして裏目に出た。「マーク式問題でマークミスをしないように注意しよう」、まあこれはいい。でも、OR って何だ。一体何を書いているんだ。「 OR とは『おもらしリスク』のことだ(キリッ)」、などと、何をドヤ顔して書いているんだ。このままでは終われない。何とか挽回したい。ちゃんとカエルと結び付ければ良いのだ。・・・カエル、カエル、帰る、帰る・・・。そうだ、「帰る」といえば「初心に帰る」という言葉がある。「初心」といえば「初心忘るべからず」という教訓がある。これだ、この流れ!絶対自然だ。

 

多義性のある諺

 皆さんは「初心忘るべからず」に二つの意味があることをご存じだろうか。改めて辞書を引いてみると、次のように書かれている。

 

学び始めた当時の未熟さや経験を忘れてはならない。
常に志した時の意気込みと謙虚さをもって事に当たらねばならないの意。 

(広辞苑 第六版)

 

例えば、世の為・人の為という高志を持ってある商売を始めた人が、いつの間にか金の亡者となり果てたとき、「初心忘るべからず」と人から言われるかもしれない。この場合、彼に「一度初心に立ち返り、その事業の本来の目的を思い出しなさい」という忠告がなされたことになる。個人的には、世間一般ではこのような使い方が大半だと思うが、どうだろう。この使い方は、広辞苑に書かれた意味に鑑みると、後半部分に該当する。しかし筆者の大学時代、教育学の教授が授業でこの諺を取り上げたときは、二文のうちおそらく前者を強調していた。辞書には「学び始めた当時の未熟さや経験を忘れてはならない。」とあるわけだが、<なぜ「当初の未熟さや経験を忘れてはならない」のか>、これが大切であると。金の亡者となり果てた Aさんの姿(現状)を見かねた周囲の人、例えば旧知の友 Bさんは、きっと彼にこう言うだろう。「Hey, bro.『初心忘るべからず』だ yo, メ〜ン」(なぜかラッパー風だが、そこには触れてはならない) 。この場合、どちらかと言えば後者の意味で、本来の目的を見失った Aさんの生き方を案じて忠告した意味合いが大きいと思われる。しかし、初期の未熟さや経験を忘れてはならないのは、その人自身の為でもあるが、その人から見て立場の弱い人、例えば後輩・若手・部下・教え子の類の為でもある。人はわからないことがわかるようになったり、できないことができるようになったりすると、経験が無かったあるいは浅かった時代の自身の未熟さ・無能さをつい忘れてしまい、知らず知らずのうちに傲慢になる。その結果、例えば教師が、その教え子に対し「自分は生まれたときからすべてを理解していた」と言わんばかりに、「なぜこんな簡単な問題も解けないのか」と強く当ってしまうという危険性がある。当該教授は、教育に携わる者は特に、こうした人間の性質を理解してそれを絶えず心に留めて教科指導・生徒指導にあたらなければならないと仰っていた。

 

teach と tell

 さて、自分の授業では初心を忘れてはいないか、傲慢になってはいないか。少し反省しなければならない。「なぜこんな問題も解けないのか」、などとは決して言わない。言わないけれど、今までの授業で何度も繰り返し強調していたことが身に付いていないとわかったとき、語気を強めて「一体いつ覚えるつもり?」と問い詰めてしまう。根底に「この重要事項は確実に記憶してもらいたい」という思いがあるからこそではあるが、その思いが伝わるような言い回しができていたかを検証し、できていなければ反省したい。とはいえ、いつもただ優しい先生は、ただ単に甘い先生となりかねない。「いいよ、いいよ。仕方ないね。でも次は忘れないで」を5回も10回も繰り返し、いつまでも基礎知識の習得に成功しないことを許容し続けるわけにもいかない。進歩・向上・上達させることが仕事だからだ。この「優しさ」と「厳しさ」のバランスをとるのが極めて難しい。多少厳しいことを言っても“思い”が伝わればその指導は受け入れられる、そう信じて、教科の知識、問題に取り組む際の考え方、学習方法などと合わせて、“思い”も伝え続けていきたい。ところで、teach と tell の違いは何か。英語を教える、数学を教えるの「を教える」は teach。道を教える、名前を教えるの「を教える」は tell である。端的に言えば to tell は単に情報を伝達する行為だが、to teach は知識を伝達し、対象となる相手に技能を身に付けてもらうことを目指す行為である。当然 to tell をするより to teach をする方が圧倒的に複雑で難しいが、その分だけ工夫の余地も大きいはずだ。何回教えても定着しない重要事項があるならば、教え方をもっと工夫しよう。記憶に定着しやすい教え方を見出そう。そうすれば、教える側・教わる側の両者がハッピーになれるはず。初心を忘れることなく、覚えていないこと・できないことを責めることなく、教え方を工夫・改善しながら授業力を高めていきたい。

 「最後の瞬間まで集中力を切らさずに」と「初心忘るべからず」という教訓をテーマに話を膨らませてみた。「カエルと一緒に帰宅した」という話だけで終わるよりは幾分マシなブログ記事になっただろうか。貴重なお時間を割いて最後まで長文読解をしていただいたすべての方に心よりお礼申し上げます。

 

 

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