倫理の時間11 「ぬ」
富山本部校高校部
塾・予備校で倫理を教えるようになり、早十数年。
昔、こんなことがありました。
授業をするため教室に行ってみると、生徒たちが黒板に何やら落書きをしていました。
一応、講師として黒板に落書きしてはいけないよと注意しようとした瞬間、
彼らが書いていたものが目に入りました。
それは、大量の「ぬ」だったのです。
彼らは、大量の「ぬ」を黒板に書き、その中から1つだけ書かれている「め」を
いかに早く見つけるかを勝負していたようなのです。
「これは!」と思い、落書きに対する注意を行った後、私は彼らにこう問いました。
「ここに書かれている大量の「ぬ」は、全部「ぬ」ですか?」と。
生徒たちは何を言っているのかという顔で、「そうです。」と答えました。
そこで、さらに私は彼らに「どうして、ここに書かれたものが全て「ぬ」と分かるのか?」と
問いました。
そこに書かれていた文字は確かに「ぬ」でした。
しかし、字の大きさや線の長さ、最後の丸の部分の大きさなど、
一つとして同じ「ぬ」はありませんでした。
では、私たちはなぜこれらを全て「ぬ」と判断できるのでしょうか。
その一つの解答を提示しているのが、古代ギリシアの哲学者プラトンのイデア論です。
プラトンは現実世界に存在しているものは全て原型(イデア)があり、
私たちが正しく認識できるのは、それを予め知っているからだと説いたのです。
逆に言えば、現実世界のあらゆるものの本質を探究することは、
このイデアについて知ろうとすることにつながるのです。
イデア論については批判もあるようですが、
生きていく上で、事物の本質を探究しようとすることは大切なことです。
生きていると、「なぜこんなものが存在しているのだろう?」
「どういう目的や意味があるのだろう?」と疑問に思うことは多々あります。
そんな時、その事物の本質に立ち返って考えてみると、
また、今までとは違った世界が見えてくるかもしれません。
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