共有感覚
富山本部校高校部
先日高2の授業で「日本人の共有感覚、感性」というテーマの現代文を扱った。
例えば、桜が散るのを惜しむ和歌は古来あまた詠まれているが、
現代でも「桜」とくれば、「春」「卒業」などとひき重ねることで、
心に「ざわつき感」を覚えるのは、日本人が歴史的に培った共有感覚そのものだ。
月見の宴席。山の端に月が上がると、月見など普段全く無関心な若者までが、
酒盛りの手を止めて暫くの間月に心奪われる様子だったという。
たまたま同席していたスイスからの客人が、そんな日本人の様子を見て、
今夜の月には何か異変があるのか、と隣の日本人に怪訝な顔つきで質問した、
という話がある。小林秀雄の『お月見』である。
先夜、ややおぼろではあったが、満月が上空高く鎮座していた。
そして突っ立っている私のそばを、一点の蛍が宙を舞って上下していた。
以前、町内の新住民の若者に「この辺りにも蛍がいますよ」と教えてあげたが、
ふ~ん、という感じだった。そんなの当たり前だからか、そもそも関心がないのか。
もしかして、共有感覚、衰退の危機か?なんともはや…。
それでも私は、明日も蛍の光を追いかけて、夜に佇む。