目と眼
富山本部校高校部
「私は『眼』という字はめったに使わない。あるいは使えない。たいていは『目』を使っている。『眼が光る』と書くのと、『目が光る』と書くのとでは、ずいぶんちがうという気がするのだ」
とある評論文中の筆者の言葉である。さらに筆者は言う。
「私は『眼』というと、眼球そのものが強く感じられてしまう。病院の眼科というときの気持ちである。つまり近代医学が扱う眼であり、・・・」
つまり「目のきれいな人」を「眼のきれいな人」と書いたのでは、何か違う感じがするのだ。
江戸時代初期を舞台にした作品を書こうと思った筆者は、
近代自然科学が背景にある言葉を軽々に使うと、その時代の人々をうまく描けないと考え、
作品完成まで言葉の使用に大変な苦労したと述べている。
実に共感するところである。
「月日の光失ひつる心地して」の「日」はおそらく「太陽」なのだが、
極力「月や太陽の光」とは訳したくない。
古文で「責む(せむ)」と言えば、「催促する」とか「せがむ」と訳すことが多いが、
なるべく「要求する」とは訳したくない。
あくまで個々の感覚の問題ではあるものの、
入試で記述の国語が必要な受験生は、こういった感覚をぜひ大切にしていただきたい。
そして時には「表現を楽しむ」ことも忘れないでいただきたいと思うわけである。
