答えるより難きこと
富山本部校高校部
質問の出ない勉強は、すべてを自分一人で解決できているという点において素晴らしいことである。だから、それができる優秀さを持ってさえいるならば授業は最小限しか受ける必要はなく、あとは自習室に籠り勉強するがよい。そうすれば無駄な時間などは極力省くことができ……
まことに正しい。それゆえ合理的な反論は難しいようだ。でもどうしても、なんだか釈然としない気もする。この気の晴れなさは一体どこから来るのか……。
こんな時は、「当然」と思われ、それゆえ見過ごされかねぬことを疑ってみることから始めるがよい。ここでは即ち、「質問の出ない勉強は自分一人で解決ができているから素晴らしい」である。
果たして本当にそうなのか。
そもそもここには、根本的に他者への「信頼」というものが見えない。自分でできるなどという、ちょっとしたナルシシズムとエゴイズムに満たされてはいないか。そう自分に問うてみるといい。
そんなことよりもう一つ。
例えば問題を渡されて、「答えさない」と言われれば、まあできるかもしれない。ところが、傍線の引かれていない文章を渡されて、「問いなさい」と求められたらどうか。参った参った、これは困る。
問いについてよくよく考えてみるという事は、案外少ないかもしれないが大事なことだ。
例えば、とある子どもがこちらへ駆け寄って来て、こう問うてきたとしよう。
「ねえねえ、『急がば回れ』ってどういうこと?」
「何だ簡単な質問だ。ええとそれはね…」と答えてあげようとしたとき忽ち、もう一人の子がやって来てこう問うた。
「ねえねえ、『急がば回れ』ってどういう意味?」
「おや、2人とも同じ質問か。それなら一緒に答えてあげよう」と思ったのだが、いや待て……
「どういうことか」と「どういう意味か」では問いが違うではないか。問いが違う以上答えも違ってくるではないか。しかし私はこの2人の子どもに、別々の答えを用意してあげられるだろうか。用意してあげたいが、どうやらすぐには答えてあげられない…こんなの簡単な質問だったはずなのに…。
「こと」と「意味」の違いは何か…。いやそれ以外でも。問いを正しく理解できなければ、正しく答えることもできない。「質問の出ない勉強」においては自ら問いを立ち上げようとする主体性が疎かにされていないか、ということは、考えてみる価値があるんじゃないかということを、ちょっと言っておきたい。答えることよりも、問うことの方が、余程難しいのである。