対話ということ
富山本部校高校部
対話することの重要性みたいなものは、そこらで喧伝されているようであります。大学でもディスカッションの授業をしたり、高校でも何かを発表し、それについての意見交換をクラスでしたりだとかする。
無論そのような経験は重要に違いないが、さてここでは、「話す」ことが重視され訓練されるばかりで、「聞く」ことの鍛錬が軽んじられてはいないか。
上手な「話し方」は大勢が求めるが、上手な「聞き方」を本気で獲得しようとしている人はあまり多くない。上手に話すために練習は要っても、聞くことには一体何の努力が要ろうか、そんな風に思われがちなのでしょう。そもそも、電話の鳴る音、車の走行音、風が吹く音、他人の喋り声……身の回りに無数にある「音」というものは、わざわざ聞こうとしなくても耳に入ってくるものです。
音はそんなふうに耳に入ってくるものですから、人の話も同じく、話半分で聞いていても何か喋っている内容は聞こえてくる。しかしそれでは「聞こえた」だけで、「聞いた」ことにはならない。ですから、「対話」するとき忘れてならぬは、「聞く」ことの難しさだろうと思うのです。上手に話すことが難しいのと同じように、上手に聞くことも又難しい、努力を要する事でしょう。
とはいっても、「人の話をよく聞きなさい」などと主張して終わりたいのでなく、私どもが一番聞き逃しているのは、ひょっとして自分の話なのではないかということを考えたいのです。
「君の言う事をよく聞かせておくれ」と、他の誰でもない自分自身にそう頼んでみたことのある人は、いますか。
自分の声というのも、聞こうとしなければ聞けないのであります。しかし自分の声が聞こえなければ、自分の決意と確信をもって生きていくことは難しくなる。それでも、自分の声を聞かせてくれるよう自分に頼んでみたことのある人は少ない。
自分が何をしたいかなんてのは大体わかっている、進みたい道も何となくでも見えている、聞こうとしなくても自分の声は聞こえていると思っているでしょう。そういう人は、外的なものに翻弄されるのであります。自分の内側から漲ってくる動機がないと、外的なものに振り回されるしかなくなるのであります。たとえば試験だとか就職だとかに囚われて、学ぶことそれ自体のおもしろさを見失う。
だから対話してみるのです。他ならぬ自分自身との対話を試みる。対話というものの最も純粋な形式は、自分との対話なのではないでしょうか。恐らくソクラテスの言った「対話」も、そういう意味でのことだろうと存じます。
哲学は、常に前進することを求められている私どもを立ち止まらせてくれるブレーキであります。
時間に追われる慌ただしい生活の中に、立ち止まって自分と対話する時間を与えてみる、黙って自分の声を聞いてみる、そんな充実した沈黙というのにも、大きな価値があるだろうと信じます。
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